鎌倉 満福寺  2018/02/16

      2018/12/06

山号:龍護山
院号:医王院
宗派:真言宗大覚寺派
本尊:薬師如来
創建年:天平16年(744年)
開山:(伝)行基
正式寺名:龍護山 医王院 満福寺

天平16年(744年)、東国の疫病を沈静させるため行基が聖武天皇の勅命により、腰越で建立した寺と伝えられている真言宗大覚寺派の「満福寺」、この地で霊威を得て薬師如来を祀り、病気平癒の仏として信仰されます。同じく行基によって建てられた鎌倉最古の杉本寺が天平15年(743年)ですからこの地では一二を争うほどの古刹となっています。

時は移り源平の戦い、壇ノ浦で平家を討ち滅ぼし平宗盛父子を護送して鎌倉に凱旋しようとした義経でしたが、兄頼朝に鎌倉入りを拒まれ、このお寺で弁明を書いた嘆願の書状「腰越状」、それでも頼朝の許しは得られませんでした。義経は京都に戻り頼朝を深く恨んで謀反を起こすのですが、それもかなわず、一方頼朝の追手が着々と迫り、吉野の山奥で静御前と生別れ、最後は奥州藤原の地で自刃します。鎌倉に送られた義経の首は、1189年6月13日に満福寺付近の腰越の海岸で和田義盛、梶原景時らによって首実検が行われた後に藤沢の白旗神社に祭神として祀られたとされています。

本堂

弁慶が綴る「腰越状」

源頼朝は従弟の木曽義仲を討ち、その後、義経をはじめ実の弟たちを次々と死に追いやり、結局のところ源氏は三代で政権から離れ、その間に北条家の治世体制が固められて盤石な鎌倉時代がつくり上げられます。鞍馬山で育った義経、首途八幡宮から奥州への旅立ち、五条大橋での弁慶との出会い、そして満福寺での「腰越状」、その後の義経の逃避行、奈良吉野での静御前との別れ、そして義経・弁慶終焉の地「平泉」・・・ 一度は行ってみたい奥州平泉、でも年も年だし早いうちに行かないと(^^;

鐘楼

 - 稲村ヶ崎・腰越, 鎌倉